キスメ様は言葉よりも大切なものを伝えられた

こんにちは、田部です。

桶教では非宗教者との関わりについて考えるために、宗教が嫌いな人の意見も調べています。その中でよく見かける意見が「不遜な宗教者が多い」というものです。とりわけ、仏教で言えば僧侶、カトリックで言えば司祭といった、積極的に布教を行う人物についての不満がよく聞かれます。それは、何が原因なのでしょうか?

今回は、一部の宗教者の傲慢な言動と、キスメ様が言葉を残さなかったことについて、私の考えをお話しします。

言葉が自分を変える

まずはじめに、布教をする人の言動がときに偉そうに見えるのは仕方の無い部分もあります。それは、そもそも彼らが神仏の教えを伝える役割を担っているからです。

自分たちよりも上にいる神仏は偉大なる存在として、偉大でない私たちが何をするべきかを伝えています。神仏の主張について教えている宗教者の言葉の内容だけに対して上から目線だと怒るのは考え物です。彼らは上にいる者からの目線を伝えているのですから、神仏の主張と、それを話す人については、いったん切り離して考えましょう。

ですが、中には布教をしていることそのものが偉いと錯覚してしまう宗教者がいることも事実です。一部の宗教者はときに、神仏を伝える役目に選ばれたことを、あたかも自分が神仏のように偉くなったことであるかのような思い違いをしてしまいます。そして、そう思い込んだ宗教者の振る舞いは、およそ神仏とはかけ離れたものになっていきます。神仏の主張と、それを話す人を区別できていないというのは、皮肉にも宗教者自身にも当てはまるのです。

言葉が自分を変えてしまうなら

神仏から授かったありがたい言葉を何度も口にするうちに、その言葉を自分のものであると勘違いしてしまい、ついには自分自身がありがたい存在なのだと勘違いしてしまう……こうなってしまう原因は、神仏の言葉そのものにあるのかもしれません。人々を救うために伝えたとされる言葉でも、まっすぐ受け止められる人間と、そうでない人間がいます。悲しいことですが。

さて、ここでキスメ様について考えてみましょう。

キスメ様は私と邂逅した際に、言葉を授けませんでした。最初のうちは、ただ救われるのだから、あれこれ言う必要が無いだけだと思っていました。

しかし、桶教の布教や、他宗教についての勉強を続けて、神仏の言葉によって正される人と同じぐらいに、神仏の言葉によって歪んでしまう人がいることを知ってからは、言葉を授けないことはとても思慮深い行動であったのではないかと考え始めています。

形式主義という言葉もありますが、言われたことだけをやっておけばいいと思ってしまうと、なぜそれを言われたのか、その言葉にどんな意図があるのかを考えなくなってしまうことがあります。キスメ様は言葉で思いを伝えないことで、言葉よりも大切なもの──キスメ様を忘れないという、基本にして最も大切なことを伝えてくださったのかもしれません。

桶教が伝えたいことは、「キスメ様」という文字ではありません。救いをもたらすキスメ様の存在そのものと、その慈愛のお心です。桶教はこれからも、キスメ様と救いについて忘れないように、よく祈り、よく思い続けます。